御流儀最高師範
真正の日本武道に内在されている教訓は、人生に対して不思議な力をもつ。ある時は人を教え導き、ある時は人を励まし慰める。
それは武道が数千年にわたって、すでに幾千万人を教え導き、国家の礎を築き、あるいは迷う者達を励まし慰めたという実証の力が、暗黙の間に我々日本人の精神に意識されているからであろう。
武道を伝承する側からいえば、これは先師の修めた術理と精神の集約であり、私言ではない、過去多くの人々も、その誤り無き事を立証したとの自信をもち得るものである。
そして、学ぶ側の人もまた、日本人として古来共通の理解済みのものであると考えれば、きわめてなだらかにその教訓に耳を傾ける事が出来るからであろう。
武道に於ける教訓は、短くて意義が深い、短いが故に覚え易く、深いが故にその応用は無凝自在である。故に、武道の術理と教訓はこのような不思議な力をもつものである。
天眞正自源流を習得することは簡単であり、同時に至難であり、人生永遠の課題を定義することでもある。
一門諸氏に心から希望したいことは、自源流武道の術理と教訓に対する態度である。武道は決して学んで楽しむというだけのものではない。伝聞秘伝を旨とするものでもない。これを学びこれを習得して修身に益し、済世に資すべきものである。
いわば武道は、自己の姿を、もしくは世情の実相を心の鏡に映し出し、此れを以て反省の資と為すべきものと思う。
古人の武道に対する態度はすべてこのようなものであった。関ガ原天下分け目の戦いの前後、直江兼続は「滅国を興し絶世を継ぐ」の教訓に感じて去就を決し、加藤清正は「以て六尺の孤を託すべし」との教訓に感じて孤忠を全うしたと伝えられている。
自源流には、世間で言われているような秘伝極意と称するものは存在しない。伝書や巻物の中に於いても、これは秘伝でこれが極意である・・・等と言う記述は一切ない。
なぜならば、相応の修練なくして技術を修めたとしても、それは唯単に形を学んだのみであって、何の役にも立たない技術に過ぎないからである。
あくまで、修練の過程に於いて精神と術理の融合が成されてこその武道であり、極意と称するものがあるならば、それは、その人達の修練の結果、到達した次元で成しえる術理に他ならない。
自源流には、隠し事は何もない、あるのは唯一心技の修練のみである。そこには、極意も秘伝もなく、求めるものは、自由自在の剣の理法に尽きるものである。
さればこそ、私の様な一介の凡夫でも真剣に武道に接すれば、必ずや得る所があるであろうと信じている。
我が身にもできない事をお奨めするのは恐縮だが、本年も一門諸氏と共々に一介の剣士として励みたいとの希望から敢えてこの語を諸君らに伝えたいと思う。
平成二十年一月