初 段:T.H.
初段をいただき、花園神社と靖国神社での奉納演武も経験し、ようやく同門の一員として認めていただいたと実感する昨今ではあるが、知るほどに、またやるほどに奥が深い。
何より思うのは、求めれば必ず答えがあると言うこと。いろいろな疑問が、最高師範にお聞きすることで解消していく。
最も基本的な疑問は、木刀を使う型(当流では法形だが)と、真剣での刀法の違いについての事だ。
通常の流派では木刀を使って型を教えられるが、真剣を想定すれば型どおりには行えないと思えることが数多い。
真剣を使う場合にはここはどうなる、こうはいかない、と疑問が次々と湧いてくるが、自源流以外では尋ねても教えてはもらえなかった。
真剣を使った組太刀や立ち会いなど、現代人は誰も経験してはいないから、当たり前と言えば当たり前。
しかし一度この疑問に突き当たると、もう先へは進めない。こうだろうか、こうに違いないと自分で解決するしか方法はなくなり、確信が持てないままに意欲が無くなってしまう。
しかし当流では幼少時から真剣を振り、真剣を使っての組太刀を先代から教えていただかれた最高師範がおられる。
お聞きすればたちどころに教えていただける。ありがたい。
さらには真剣で稽古できるから、相手を想定しながら使えば、真剣ではこうだが、木刀ではできないのでこのようにすると、法形と真剣の違いが納得できる。
剣術は剣を使う術である以上、真剣で稽古をすることにつきると思う
。
もう一つは法形に現されていない事だ。実戦では相手は型どおりに対応するとは限らないが、その場合にも全て答えがある。
先人が様々な経験や実戦を通して伝えられてきた当流には、あらゆる変化や対応が含まれていることを強く感じる。
小手先の工夫などはひとつもない。法形を砕いて自由に使うことも初めて経験した。全ては実戦に基づく。
新しい技を教えていただく。するとこの技がこうなら、あの技は本当はこう使うべきではないか、あれはこうだとまたひとつ先が開ける。
体の使い方をひとつ会得すれば、また新しい展開がある。手の内はこうだ、踏み込みはこうだ、抜き付けはこうする方が速いと。
こうして実戦を想定し、真剣を使って稽古をするうちに、何度か自分の手を切り、刀で切ることと切られることを身を以て体験する。やがて刀を抜く瞬間から相手の生死が手の内にあり、同時に相手の手の内に自分の生死があるという事が実感できるようになった。
先日、N師範代にお相手いただき、一間間合いで真剣での天地・一文字をやらせていただいたが、真剣勝負での境地をのぞいたような気がした。だが真剣勝負であれば終わったときにはどちらかが倒れている。
抜けば最後、必ずどちらかが死ぬ。しかし真剣勝負にかかわらず、死に直面すれば生死は紙一重。
それが真剣勝負であれ、交通事故であれ、病気であれ、同じ事だ。
人は誰でも死ぬ。いつ死ぬのかは誰にもわからない。このことは時代を問わず不変の事。
だからこそ、いつ死んでも悔いのないように毎日を精一杯に生きる事が最も大事な事だと痛感する。
これが腹にすわれば、見苦しい生き様をさらすこともなく、欲望に振り回されることもないと思う。
人を殺す剣の使い方を習得する内に、生きることの意味を教えられる。剣は天が認める目的のために使われるべきものだ。
こうして一年がたってみると、日常の生活の中で生死を意識し、まっすぐに生きることがいわゆる武士道であり、昔から日本人の根底にあるものではないかと思う。日本刀は単なる武器ではなくこれら全てを象徴している。荒廃する現代にあってこの精神の伝統を伝え、残して行くことが責務であると思う。
常日頃は俗世の垢にまみれていても、稽古着に着替えて真剣を手にすれば一切の雑念は無くなる。木太刀を手にすれば新しい発見が次々と見えてくる。今ではこの時間が何者にも代え難く貴重であり、自分を支えてくれる。