三 段 K.S.
去年(二〇〇七年)の靖国演武以来、僕が主に練習している技は3つです。抜刀納刀、袈裟斬り、そして電光(もどき)。
もう一年が経つのですけれど、未だにこの三つだけで飽きません。その理由の一つには僕はとても技の覚えが悪いので、新しいことを習っても、なかなか憶えることが出来ないと言うこともあります。
また一方では、こんなこともあります。抜刀納刀をやっていて、例えばある形の納刀がそこそこできるようになると、今度は別のこと、例えば足の踏ん張り具合とか、どこで地面を踏んでいるか、とか、自分は安定しているのだろうか、などが気になり出します。
すると今度はそれらのことに注意して、ひたすら抜刀納刀をやります。すると今度は、何となくだんだん切っ先三寸近くで、納刀ができるようになってくる気がします。すると、今度はそれに集中して、また抜刀納刀。
ある時から、目をつぶって抜刀納刀も始めました。すると、驚くほど自分が安定しません。くらくらふらふらしてしまいます。
それは何かと言えば、目を開けている間には、意識せずとも視覚を通じて体の様々な部分の 筋肉を協調させてバランスをとっているのでしょう。
ならば、目をつぶっても安定して抜刀納刀ができるようになれれば、目を開けている間にはより少ない筋肉の緊張で動くことが出来るようになることでしょうから、より速く、より滑らかに動くことが出来るようになるのではないかと思っています。
電光にしても同じです。最高師範がふと見せてくれる動き方を追いかけて色々やっていて、なんとなくそれができてきた頃に見て貰うと、また新しい課題を貰うことが出来ます。
そしてそれを目差して、足から膝から腰から肩から頭から、体の色々な部分の角度や動かし方をわずかに変えて行きながら、教えて貰った姿に一番近づけて、一番剣がスムースに流れる動線を探すと、楽しささえ感じてしまいます。ちょっと触ればすぐに肉を裂く真剣で、人を斬る技を稽古しているのに。
また、プラスチックのゴルフボールを宙にぶらさげてみたものを斬ってみる稽古をしたり、竹を投げて、それを斬るようなことをやってみると、自分がやってきたことの新たな面と、新たな課題が沢山見えてきます。
袈裟斬りでは、一番速く、そしてどの位置でも切っ先を最速にするようにする動作を探しています。足の位置や、切っ先が的に当たると仮想した瞬間わずかに全身をゆるませてちょっと前屈みに鳴ってみたりなど、色々工夫すると、やっぱりいくらやっていてもあきません。また、ただ空振りばかりでなく、的を設定して斬ってみると、また感覚が、がらっと変わってきます。
そしてもっともっと面白いのは、電光で得た感覚を抜刀納刀に持ってきて、抜刀納刀で得た何かを袈裟斬りに持ってきて、袈裟斬りでできるようになった何かを電光に・・と、それぞれで得た何かを、それぞれ違う技の中にとけ込ませ、また新しい何かを探すことです。
僕は以前、自転車で旅行をするのが好きでした。ヨーロッパアルプスやロッキー山脈などを走ると、何日もひたすら上り坂ばかりです。ある高いところを目差してそこに辿り着き、ちょっと開けたかと思ったら、また新たな高みが見えるので、そこを目差してペダルを踏んでいきます。
この思い出が、剣の稽古ととてもかぶります。何かを目差して稽古をして、ちょっと辿り着いたと思ったら、また新しい何かが見えるので、それを目差してまた稽古をする。
小学校の頃、図工の時間、和紙をノリで重ね合わせてお面作りをした思いでも、剣の稽古をするとよく思い出します。一枚一枚はとっても薄いのに、貼り合わせていけば何時の間にか厚みが増して、なんとなく、形が見えてくる。
毎日少しでも剣を振ると、ほんのわずかだけ、昨日より「それ」が上手になっている自分を感じることが出来、そして、それが何日か続くと、まるで始めには何もなかった紙張りのお面に、いつのまにか鼻ができてくるように、前にできなかった動き方ができるようになる、そんな自分に対する自信をつくり出すことが出来、味わうことが出来る剣の稽古とは、とても不思議でありがたいものだと思います。
話が飛びますが、「眠ること」とは、最高のムダです。動かない、考えない、横になったまま、何もしないしできない。起きて立ち上がり、何か仕事をしている状態とはあらゆる面で真逆です。しかし、陰がなければ光も無いのと同じで、眠らなければ生きることは出来ません。
剣の稽古というのも、一面では最高のムダ・単なる自己満足の追求でしかないと言われれば、否定できません。携帯電話で地球の裏側の人とも話ができるこのご時世、日本刀で人の殺し方を学ぶなんて、自分は何をやっているのかと思うこともよくあります。剣を振ったところで、一円も稼げるわけではありません。
でも、そのお陰で自分の何かが変わります。剣の稽古とは全く関係が無い自分の生活の場面で、剣の稽古無しには得られなかった何かが見いだされることは、今では驚きでもなんでもありません。
まとまりの無い話をすみませんでした。皆様本年度もどうぞ宜しくお願いします。