則の修練


御流儀最高師範

現行武術に於ける刀法の基本は、敵の太刀筋を断つ事をその基本としている。即ち、一度止め受け手からの攻撃であり、この相反する二つの動作を同時に行う事から身体の不自然さが出てくるのである。

 竹刀剣道に於ける最終技術は後の先であり、敵が打って来る瞬間を捉えて、中心を外しながら、同時に敵の隙を打つ所業である。素晴しい技術ではあるが、是を会得するのには相当の修練と時間を要するものである。

 しかしながら、この竹刀剣道究極の技術も、事、実戦となると相当に異なってくる。竹刀剣道のように飛び込みながら、身体を伸ばして真剣で打ち込んだ場合、万が一外しでもすれば、それは自殺行為以外の何者でもない。

 真剣勝負で生命をかけての対決であれば、一か八かの勝負は捨ててかかるべきである。その証拠に幕末で有名を馳せた『防具付竹刀剣道』の名人達人と称された人たちは、尽く実戦に於いて敗れている。ある者は手首を失い、ある者は命さえも失ってしまったのである。

 攻撃部位は籠手/面/胴だけではない、ありとあらゆる身体の全てが攻撃対象となる。指や足の先ほどでも真剣がかすり斬れば、相当の痛みが生じ、その瞬間に隙が生まれ虚をつかれてしまう。あとは命を失うだけである。

 三本勝負は意味を成さない、実戦に於いては一本勝負あるのみであり、負ける事は死を意味するからである。

 天眞正自源流に於ける『則』の技法には、『千の則がある』と伝えられるように、その変化は縦横無尽である。
 
 故に真正の『則』を会得し自得の域に到達する為には、相応の厳しい修練を積まねばならない、古来、『則』を真正に修得する者は千人に一人と言われる程、厳しいものであった。
 
 立木撃ちの朝夕八千回に比例して、『則』の修練は更に想像を絶するものである。

 立木に対して、木剣を滑り切る様に左右に打ち切る修練から始まり、是を日々一万回、そして、千日経過の後、自然木の枝を縦横上下に打ち切る修練が更に千日、そして、最後に真剣で真剣に則で切り込む修練を千日、都合三千日の難業であった。
 
 『則』は自源流の真骨頂と成す曇耀『いなずま』の太刀筋を生み、抜刀納刀の修練は神速の電光『でんこう』の術理を構成する。

 ≪陰の太刀曇耀を自得は則を会得せしめる所以也。陽の太刀電光の自得は神速を会得せしめる事也≫とあるように、曇耀と電光は陰陽に位置しながら表裏一体の術理に他ならないものである。

 今より後、数十年数百年後に天眞正自源流武術が形骸化し、修練なくして、この曇耀と電光を伝承しても、それは武術歴史の残像を残すに過ぎないといえるであろう。