天眞正自源流の志を忘れず


 師範代五段 K.N.

皇紀(神武暦)2668年、平成の世にあり、ここ日ノ本の国において、大多数の日本人が忘れ去り、すでに古の遺物になってしまったと思われている剣術をなぜ修練しているのだろうか?その意味をまず問おうと思い、「平成」の出典を調べたならば、おもしろい記述をみつけた。

 「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味であるが、また「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」に通じるとある。

 私も含め、大多数の日本人が平和への願いとその象徴としてイメージしていた平成という年号に、こんな隠された意味があるとは、少々驚きも感じた。

 正にすべての事象は陰陽で成り立っているというべきであろうか、わたしの問いの答えは既に「平成」の中にあった。古人(いにしえびと)曰く、「治にあって、乱を忘れず。」とあるが、ここに旧暦慶応4年(1868年)明治維新より140年経ち、武士の魂を忘れた平成の世に、乱世の兵法を学ぶ意味がある。

 「武士道」といえば、新渡戸稲造がアメリカ人に紹介するために『武士道』を武士の滅び去ったのちの明治の世に著し、それが日清戦争以降わが国に逆輸入されたものが有名であるが、それ以前に幕末の万延元年(1860年)に山岡鉄舟が『武士道』を著している。

 それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。

 それ以前には、武士道という概念に後世においてつながる武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれたが、その元をただせば戦国の武士の気風を受け継ぎ殉死などを行なう傾奇者を公秩序維持のため徳川家綱の代に禁止するために作られたものであった。

 その教育理念として、江戸幕府は儒教の朱子学を公の学問とし、信・義・忠を重んじ、気高い振る舞いを行なうのが武士であると定義した。その後江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もあらわれた。

 そうした武士の一人に佐賀藩士山本常朝が著したのが『葉隠』である。しかし、この時代にその思想が武士社会に広まることはなかったとされている。

 (以上ウィキペディア「Wikipedia」より引用)

 この『葉隠れ』より出た有名な言葉で、「武士道といふは死ぬことと見つけたり」というのがある。武士の死に方といえば切腹であり、これは別名腹切り(はらきり)、割腹(かっぷく)、屠腹(とふく)ともいう。武士の名誉ある死に方とされている切腹であるが、それは新渡戸稲造が著した『武士道』の中で、「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたとの説や、腹に一物を持っていないことを証明するパフォーマンスとしての手段であったとの諸説があるが、ここでこれ以上の切腹に関する言及は割愛したい。

 「死ぬことと見つけたり」を、ともすれば信仰的に考えたり、または行為として倫理的に捉えがちであるが、わたしはこれを武術的な心法として捉えたいと考える。

 結論からいうならば、それは平常心ということである。武道を嗜んでいるものであれば、一度ならず耳にしたことのあることばであろうが、この出典は柳生新陰流の兵法家伝書にある。曰く「僧、古徳ニ問フ、如何カ是レ道ト、古徳答テ曰ク、平常心是レ道ト…(中略)故に、無心にして、一切のこと一もかく事なし、是只平常心也。此平常心をもって一切の事をなす人、是を名人と云也。」そしてこれは、「一切の道理を見おはりて、皆胸にとどめず、はらりはらりとすてて、胸を空虚になして、平生の、何となき心にて、所作をなす。この位にいたらずば、兵法の名人とは云ひ難き也。」につながる。