師範代として成すべきこと


 師範代四段 S.T.

師範代としての役割は以下の3点かと思います。

1. 初心者、及び新たに入門者が来られた時などは1日でも早く道場になじむように積極的に声をかけてあげ孤立した状態にならぬように仲間に打解けられる状況作りが師範代としての役割と考えています。

2. 宗家、最高主席師範、の代わりに直接的に稽古を行い指導にあたり、そして自らの復習も兼ねて、共に天眞正自源流兵法を学んでゆく事が指導員であり師範代です。

3. 指導員は後身に対しては正しい動きの指導を行い、師範代は皆の技量を掌握して稽古相手の技術を引き上げてあげる事を心がけています。

【幕末の儒者佐藤一齋の言葉に「教人者、要須責其志。聒聒騰口、無益也」がありますので参考までに記します。】

<人を教えうる者の肝要は、立志の堅固であるかどうかを責めるべきで、その他のことをただ口やかましく言っても、何の益にもならない。> 

自源流を始める以前の20余年の間に出会った求道者の先生や先輩方について紹介します。

○ 一言の大切さ

 書における師匠は誰にでも腰を低く接してくださる方です、この先生は人の長所を見抜き褒め称えながらも的確に短所を1つずつ直し成長させて下さった先生です。

 私が師範となった時、過去を振り返るつもりで最初に書いた文字を見たのですがお世辞にも褒められる所など見つかりませんでした、人をやる気にさせる一言の大切さを学びました。
 
○ 求道者としての姿

 ある師匠は書の師匠とは相反する性格の方で、個人の特性と体力の限界などを見抜かれたうえで稽古をつけていただきました、この先生の考えは武術とは危険なものであるけれど日常生活に支障を与えるようなものは師範としての資格はないと言い切り稽古をつけていただきました。

この先生の口癖は人に稽古をつける以上夢寐にも忘れず稽古をしなければならない、尚且つ社会人として仕事も同様に行う事と言われています。

 私は今やこの師匠とであった年齢となったのですが未だ足元にも及びません。

○ 亡己利他の精神

 昔出会ったある指導員の方々は、中途半端に稽古する方はいませんでした。たとえば出来の悪い私にも何処が悪いのか、どうすれば遣えるようになるのかを自分の稽古は二の次に共に考え導いてくれました、当時としては40歳前の方でしたが物腰が柔らかく言葉も丁寧であり真に尊敬が出来る先輩です。

【佐賀藩の山本常朝が言っています。「人それぞれの長所を捉え我が師とする」】
自源流の若い皆様方、諸先輩方の良いところを見て自分のものにして下さい。

 そこで現在自分が私を指導し導いてくれた先生方や先輩方の様に立ち居振る舞いが出来ているか否かはわかりませんが出来る限りの事は自源流の方々に対しても誠意をもって対応することを心がけています。